酔っ払い、自動筆記の
ように絵を描く。

吉村萬壱さん

不穏で不道徳、そしてグロテスク。それらの作風を通じて、人間の根源的な部分を徹底的に描く吉村萬壱さん。小説とともに子どもの頃から身近だったのが「絵を描くこと」だそうで、自身の小説の世界観にもつながるタッチで描かれた絵を、取材時にいくつも持ってきてくださいました。

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吉村萬壱

1961年愛媛県生まれ。京都教育大学教育学部第一社会科学科卒業。1997年「国営巨大浴場の午後」で第1回京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年、「クチュクチュバーン」で第92回文學界新人賞受賞。 2003年、「ハリガネムシ」で第129回芥川龍之介賞受賞。高等学校、支援学校勤務の傍ら執筆を続け、現在は専業。その他の著書に『バースト・ゾーン』『ヤイトスエッド』『独居45』『ボラード病』『臣女』がある。最新刊『虚ろまんてぃっく』を2015年9月に上梓。

第1回「絵ではこいついに敵わん」
と悟った小学校3年生

――絵はいつくらいから描き始めたんですか?

吉村小学生のとき実家の襖に落書きをしては、よく両親に怒られていました。何度言ってもやめないから「もう自由に描け」って親も諦めて、双子の弟とよくいっしょに描いてました。

――弟さんは、現在漫画家として活躍されているTHE SEIJIさんですよね。やっぱり絵は子どもの頃からお上手だったんですか?

吉村弟は上手かったですね。小学校3年生のときに悟ったんです。

――何をですか。

吉村絵ではこいつには敵わん、と。えらいもんで、子どもなりにそういったことはわかるんですね。線描とか、とにかく圧倒的に僕とは違ってて、あのときに才能の怖さみたいなことを初めて考えました。

――けっこう若いときに悟られたんですね。

吉村まあ、絵は好きやからその後も自分なりには描いてましたけど、「絵で勝負するわけにはいかん」というのはずっと自分の中にありました。高校まで弟とは同じ学校でしたが、高校の選択科目で僕は美術ではなく、書道を選びました。

――弟さんはずっと美術を続けられたんですね。

吉村はい、美術部に所属してましたし、現役で京都市立芸術大学にも受かりました。僕は国立の大学を受験したんですけど落ちて、このときが一番ショックでしたね。

――その頃、小説は書かれてなかったんですか。

吉村駄文みたいなのは書いてましたが、作品としては完成しませんでした。また、高校の同級生で小説書いてるやつがおって、これがまた上手いんですよ。あと詩を書いてるやつがいて、弟が絵でしょ。僕も含めたこの4人が仲が良かったんですけど、僕だけがやるべきことが見つかってなくて、劣等感というか、それはそれは苦しい時期でした。

「地方賞は絶対受賞できない」
と悟った30代半ば

――それでも小説は継続して書かれてたんですか?

吉村大学時代に友だちと同人誌をつくって、「雑居ビル」という小説を載せたんです。本当にくだらない話で、友だちの評判も良くなくて、それからはしばらく書いてませんでした。

――精力的に書くようになったのは?

吉村東京の教員を3年やった後、大阪に帰ってきました。32歳のときです。その職場の国語の先生が文学好きで、同人誌をやられてて、そこに誘われたんですよ。最初に書いた作品が褒められて、そこからは年3回の同人誌に毎号書いてました。

――その経験が後のデビューにつながっていった感じでしょうか。

吉村そうですね、いい小説修行の場になったと思います。その後、36歳のときに「国営巨大浴場の午後」(『クチュクチュバーン』文春文庫版に所収)という作品で、京都大学新聞社新人文学賞受賞しました。宇宙人が攻めてきて、地球人がぐちゃぐちゃになるような話なんですけど(笑)、受賞して「この方向性でいける!」と思いました。

――いろんな新人賞がありますが、京都大学新聞社新人文学賞に応募されたきっかけは?

吉村文學界新人賞などの大きな賞は、枚数が100枚と敷居が高くて当時は無理だと思っていました。それで北日本文学賞とか鳥羽マリン文学賞とか、いわゆる地方賞に投稿してたんです。だけど、こっちは絶対に受賞できないとすぐにわかりました。

――作風的な問題でしょうか?

吉村そうです、そうです。小説らしい小説というか、ホロっとくるようないい話じゃないとダメみたいで。要するに宇宙人攻めてきて地球人がぐちゃぐちゃになるような話ではアカンわけです(笑)。

撮影協力 ドアーズ・ダイニング(Doors Dining)南船場店
http://www.urdoors.com/dining-cafe/
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