アメリカンヒーローものブロックバスター作「バードマン」(作中の架空作)で一世を風靡したものの、その後鳴かず飛ばずの俳優が起死回生にと舞台に臨む。そこで取り上げた題目がレイモンド・カーヴァーの『愛について語るとき わたしたちの語ること』だった。
ノーカット、継ぎ目のない撮影スタイルや、アントニオ・サンチェスによる「実演スタイル」の劇伴が話題を呼んだアレハンドロ・G・イニャリトゥの『バードマン』だが、オープニングタイトルにもその言葉が使用されたカーヴァーについて触れられた記事は意外なことにあまり目にすることがなかった。内省的な資質を持った俳優が、お粗末なハリウッド型ヒーローとして持ち上げられ、堕とされる、そのアイデンティティ・クライシスが物語をドライヴさせるエンジンであり、だからこそマイケル・キートン演じる主人公の超自我であるカーヴァーの作品が取り上げられたことは『バードマン』を語る上では欠かすことのないトピックである。そもそもミニマリストと評されたカーヴァーの会話劇である『愛について語るとき 我々の語ること』は、キッチンを舞台にしたあらゆる「アクション」の要素が排除された作品であり、「ミニマル」であるが故に(劇中作の)「バードマン」的作品とは対極に位置する。
その「ミニマリスト」カーヴァーがハリウッド映画同様の「演出」によって作られた存在だったとすればことはなおさら複雑である。登場人物の内面描写や、時に結末までもが大胆に削ぎ落とされたカーヴァータッチは、実は編集者であるゴードン・リッシュの手によるものが大きかったということは、晩年カーヴァーが自作のリライトに取り組み続けたこととあわせて広く知られている。編集の段階で、細部の描写だけでなく、ストーリーの一部が大幅に「断裁」され、結果的にぶっくらぼうで時にシュールですらあるミニマリストタッチはある種スキャンダラスな評価を浴びたといって間違いない。ある段階まで編集者と作家が共同作業的に捜索を続けてきたことは珍しい例ではない。リッシュとの関係を清算した後も『大聖堂』のような傑作を次々と発表し、彼の作品の素晴らしさは、決してスタイルに依存するものではなくカーヴァーの本質から生み出されたものだという評価がいまでは一般的だ。
リッシュが手を加えたのは作品のタッチだけではない。短編集にその作品が掲載された、デビュー間もないカーヴァーのポートレイト写真もリッシュによる演出の手が加わったものだった。ダンガリーシャツのボタンを上から2つ3つ開け、胸毛をちらつかせこちらを睨みつけるタフガイ。この写真をポラロイド・ランドカメラで撮影したのは、エスクァイア誌のフィクション担当になる以前のゴードン・リッシュだった。着用しているシャツもリッシュの私物である。いわばスタイリングを施され、ポーズも指示されたカーヴァーは男らしいアメリカン・ライターとして演出された「俳優」だった。
『バードマン』の主人公が、現実の評価と内省的な自分との間で引き裂かれたように、カーヴァーも自身の過去を塗り替えようと苦い思いをした作家だった。映画のオープニングで引用されるカーヴァーの詩『おしまいの断片』は紆余曲折を経ての自己肯定に至るカーヴァーの心境が素直に表されている。
「それで、君はいったい何を望んだのだろう? それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること。」
演出された過去の自分も、いまの自分自身の一部である。自らの望む形ではなくとも、愛された自分を肯定することの難しさ。リッシュによるカーヴァーのポートレイトが、覆面をつけたマイケル・キートンの哀しみと重なり合う。