幼い頃、近所の同級生たちと遊びながら、ふと赤い夕日を見たとき、この世の終わりを考えた。ほんの直前まで笑いながら走り回っていたのに、そういうことを思うと、突然周りから切り離され孤独な気持ちになった。少し前にテレビで終末論の特集をしていて、それを見てしまったせいだ(今となってはあの番組が恨めしいが、遅かれ早かれ同じようなことを考えるようになっていたのかもしれないとも思う)。この世の終わりには、自分の足元が砕けるようにして地球がバラバラに壊れ、自分の身体は宇宙に放り出されるのだろうか。宇宙は真空だというけれど、自分の息はどれくらいもつだろうか。そんなことを考えて長く息を止める練習をしてみたこともあった(親が運転する車の中とかで、わりと真剣に)。プールで五十メートル泳げるかどうかの肺活量では、到底足りそうになかった。
このことは続けて、死後の世界を考えることへ導いた。死んだら自分はどうなるのだろう、またどこかで生まれ変わるのだろうか。そしてまた死に、その繰り返しがずっと続くのだろうか。それは怖いと思った。そうでなければ、完全に消えてしまいたいか。しかしそれも怖い。完全に消えてしまうとは一体どんなことなのか想像もつかないが、とてつもなく恐ろしい。結局どちらも受け入れられず、いつも想像することを諦めてしまった。
子供の頃の経験が大きいのか、僕には、自分の死と世界の終わりというのが、出来事としては別のものなのに、イメージの中でごっちゃになってしまうところがあるらしい。「現世のこの自分」は死んでも、〈世界〉が残るというイメージを、僕はなんとなく抱いている。それはそうだろうと思われるかもしれないが、ちょっと常識的ではないのは、その〈世界〉には〈自分〉も必ずどこかに存在している、ということだ。人間なのか動物なのか空気なのか、どのような形かはわからないが、とにかく存在している。だから〈自分〉が本当に消えるのは、その〈世界〉が消えるときだ(ふわふわと、こんな考えが自分の中に浮かんでいる)。〈世界〉は、いつか終わるのだろうか。そういうことを考えるとき、とても孤独になる。真空の中にいる気がする。
この本を読んだ後に持った感覚は、こういう風に考えていた時の感覚に近いものだった。本書は人工知能やクローン技術といった科学技術を発展させた人類が、どのような未来を歩むのかということを描いた、サイエンスフィクションあるいはファンタジーである。著者が描く人類の未来は、明るいとは言い切れない。けれど既存のSFが描いてきたような、機械に脅かされる人間という悲観的な像を描くものでもない。科学技術の評価という点で、本書には不思議な感触を抱かされる。テクノロジーによって生み出される帰結が、とても「やさしい」感じがするのだ。そういう部分に注目して読む人は多いのではないかと思う。しかし自分に一番残ったのは、もう少し別の点だ。
最後の章で、消えかけの電球のような、人類の生の点滅が描写される。そこでは、大きな母と、エリとレマという人間と思しき三人の人物たちが、遥か昔の人類を回顧している。その間の時間、現生人類が様々な試行錯誤を経て滅んでいくまでの時間を、読者はこの小説を読みながらたどってきている。
もちろんそこに人類史のすべての出来事がきちんと時系列に並べてあるわけではない。しかし僕はこの本を読みながら、長くその道程を眺めてきたという感じがした。そして最後にこの三人と共に、ああ、僕は彼女ら・彼ら(男の登場は非常に少ない)と共に、ずいぶん長い時間を歩いてきたのだな。そして、おそらくもうすぐ人類は終わってしまうのだな、という気持ちを抱いた。
でもなぜか、悲しい感じはしない。登場する女性たちは、かすかな光の中にいる。そこには本当に少しだけれど、希望のようなものも残されている。それは「希望」と呼んでもいいものなのかどうかためらわれるくらいのものだが、一応は存在している。彼女たちと共に、その黄昏の光を、見つめている。
この時僕は、幼い頃に感じていた、自分の生のずっと先であり、同時に〈世界〉の終わりのようなものを(そこで〈世界〉にふわふわと漂っている〈自分〉も本当に消滅する)、見つめている感じがした。
けれど本書の中で語られているのは、世界の終わりではなく、あくまで人類の終わりだ。それらがここで重なって見えるのはなぜだろう。それは、彼女たちが三人でいながら、それぞれが一人で、人類の滅亡という全くの未知に向き合っているからではないだろうか。そのことが、〈自分〉の死という未知と重なるのだ。
結局、著者の描く〈世界〉の終わりらしき場所までやってきても、〈自分〉が消滅した後どうなってしまうのかは、僕にはよくわからないままだ。でもそれを見つめるのは一人ではなく、誰かと共にあることで、その真空にどこか暖かみのようなものが生まれている。
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この物語を、どういう風に受け取ったらよいだろう。リアリティを感じてしまったのなら、その人は、やがて来る人類の滅亡という可能性を真面目に受け止めなければならない。だとしたらその一部である自分は、一体どういう存在なのだろう。滅亡の運命の一部である自らを、どのように意味づけ、肯定したらよいのだろう。
本書はこう結ばれている。
あなたたち。いつかこの世界にいたあなたたち人間よ。どうかあなたたちが、みずからを救うことができますように。
滅びてしまった人間たちのために、だからレマは今日も祈る。どこにも届かないかもしれない祈りを、静かに祈るのである。
なんら能動的な可能性がなくなった時に初めて、本当の意味での祈りが生まれる。レマの祈りはほとんど実際的な力をもたない。けれど、滅びてしまった人類に、一つの意味を与え、その存在を肯定する。これが著者の人類の運命に対する態度であるように思われる。
とはいえ、おそらく著者の川上弘美さんは、完全に人類を見捨てていない。レマの祈りは同時に、著者の(まだ滅びていない)現代の人間たちに対する、若干の希望を込めた祈りでもあるように思うのだ。