もし祈り続けた今日が、血が沸くほど立ち上がることで、叶い、叶うなら、起き抜けに見た蜘蛛にも優しくなれるだろう。蜘蛛が実際、いたのか、いなかったのかは、叶い、叶わないのなら関係ないことであって、俺たちの64時間、それをすべて今日だと言う。さすれば、肌がたち、気は捲れ、がなるような詩の朗読にもアカデミー賞のスピーチにも、涙を流すわけを聴きたくなるのは、おまえだけれども、怪物が俺たちの期待をめちゃくちゃにしたのだから、本当に災いだ。ちくしょうめ。複製された男が俺で、おまえはクローンだ。つまりどちらも本当の俺ではないけれど、本当の俺は俺の中にいるし、おまえの中にもいる。俺たちは複製されたんだ。クローンなんだ。そうなれば心の傷は外に出てくるし、女のことは言いにくいな。おい。俺は本当のことを書いているようで書いていないけれど、嘘は苦手なんだ。リアルに創作をしているって言うのが正しい。正しさを求めるおまえに答える時はこう言うってだけでそれが俺のこの場面での正しさで、おまえにみせる正しさなんだ。正しさなんて俺とおまえの間だけで発生する問題だと思えるうちは幸せだけれど、結局は俺とおまえ以外が正しさを決めるんだ。俺とおまえの正しさを突き詰めることは、正しいことではなくなるし、俺とおまえのどちらかが正しいだなんてことはなくなり、正しさを求めること自体が正しくなくなるという見方が正しい場合もあるが、それを批判することが正しいと思える場合もある。しかし、批判する行為が正しいことなんて一度もない、と言い切る正しさを信じるか、信じる行為を正しいと信じるか。