ふと、こんな一文を思い出した、とても好きな文の一つだ。「まあ、茶でも一口すすろうではないか、明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音を立て、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。」
1906年、岡倉天心が英国で出版した「茶の本」。天心の弟子であった村岡博の訳で1929年に発行された。僕は茶事には疎いのだがお茶は好きでよく飲む。煩わしい作法は好まない、いかにもお茶を片手に談笑しているようなこの一文がとても心地いい。今回はそんなお茶の一杯を頂いたお話です。
古くから続く遺跡が多く残り、可住地面積が日本で最も少なく多くの自然が残されている地域といえば奈良県だ。そんな奈良県に別荘地を持っているお金持ちが多数いることはあまり知られていない。別荘といってもアメリカナイズされたプール付き豪邸ではない、平安様式の少し小規模な日本家屋をそのまま改築して使っている。ぐるっと内庭を囲んで建物があり、内庭にはちょっとした畑や苔むした庭があり、外側一面の縁側から大きく広がる庭からは遠くまで見通すことができて、その景色すらも細やかに設計されているのだ。観光していてもはたから見ると昔ながらの大きな家がたくさんあるな、くらいにしか思わない。こんな家を別荘に使う人ってどんな人?とも思うが、それはまた別のお話。。。
当時僕は花人(花を活ける人)のお手伝いをしていて、その旧家で花会をすることになり、何日か前から現地で寝泊まりして準備を進めていた。家は家守と呼ばれるいわゆる管理人の方がいらっしゃってその方と色々と準備を進めていく。入り口から掃き掃除をして、雑巾掛けをして各部屋を見て回る。とにかく広い屋敷なので、それだけでも時間がかかる。食事は各自で作るのだが家守サンは食器等は好きに使って良いと言う、何の気なしに好きな器を手にとって質素な食事を食べる。家守サンが色々と世話を焼いてくれるので僕は申し訳ないほどにすることがない。その日は好きな部屋に泊まって良いよと言うので床の間に筆の絵の掛け軸がかかった部屋を選んで心地よく眠った。家守サンは元住職だったそうで朝はとても早い、それでも心地よい部屋に泊まったおかげか僕もすっきりと起きれた。
朝の掃除が始まる。残った部屋の掃き掃除をして回った頃にご飯が炊ける。家守サンに大きなすり鉢を渡されて胡麻を摺ってくれと言われた。そこに醤油を垂らして、茹でたての朝採りの菜の花をばさっと山盛り入れる。好きな器に白飯を盛って豆腐の味噌汁と、そして胡麻和えの菜の花。今のところそれを超える朝食には出会っていない。それほど美味かった。
食事を終えてまた掃除、そろそろ終わるかなと言う頃に、休憩しようと家守さんが縁側にお茶を用意してくれた。和紙に包まれた落雁のようなお菓子を口に放り込みながら、縁側に置いてある小さな水屋箪笥から好きな器を選んで家守サンに手渡す。普通のヤカンから湯冷ましに湯を移し、適温になった所で茶を立てる。手際の良さは経験から来るものだと思う。日常的にこういうことを毎日しているのだ。掛け軸のこと、器のこと、世間のこと雑談をしながら茶を啜る。旨い。本当に旨い。
当時はぎこちない所が何一つないので全く気がつかなかったが、今ふと思う。なぜ一つ一つ器を選ばせてくれたのか、なぜ好きな場所に寝かせてくれたのか?朝採りの菜の花はなぜ僕が摺った胡麻だったのか?水屋箪笥はなぜ縁側に置かれていたのか?日常に人を迎え入れる隙間がちゃんとある方だったのだと思う。家守とはそうした仕事なのだ。そして雑談で初めて知ったことなのだが床の間の軸は蕪村、器は古唐津や黄瀬戸の年代物、とても僕には手に入れられそうもない逸品ばかり。とても貴重な体験だった。
実ははじめに書いた文には前文がある、少し気の抜けた後半のこの部分がとても気に入っているので紹介したが、前半は日本美術の革新を求めていた天心らしく、とても熱のこもった奮い立つような文だ。彼は欲にまみれた当世に幻滅して、日本の美徳をお茶の話に変えて世界へ発信した。過去現在未来、今の世はどうだろう、天心の望んだ世界は育っているだろうか。それとも淘汰されてしまっているのだろうか?良き風習が受け継がれていることがない訳ではない。それが誰だって構わないと僕は思う。出会った方々の中にもそんな方々がいた。今回の縁側もそんな風習が根付いているお話でした。次はそれをテーマとしましょう。次回は「受け継ぐ」で書いていきましょう。
ではまた。