特段実のある話題なんてないのに、
優先的に時間を取って会いたい、話したいと思う人っていると思います。
しょっちゅう会っているから、尽きるほど話し続けるほどでもなくて、沈黙の時間のほうがむしろ多い。
でもこの人と一緒にいるだけで気持ちが安定してくる。
そんな人。
時々「僕の彼女は、水や空気みたいな存在です」なんてたとえを聞くけれど、
モームの本ってなんだかそういうポジションをしっかり押さえてくるんですよ。
かの有名な「月と六ペンス」を読んだ時に、激動の展開というほどでもないのに、
あぁ、誰かにこの本のことを話したくなっちゃうなぁ、なんて思ったのを覚えています。
有名な本なので、誰かに今更話すのもはばかられて、結局それまでだったのですが。
しかも、なぜかわからないけどしっくりくるので、勧めようにも説明しにくい。
そのあと、モーム自身の半生を参考にしているんだろうな、という「英国諜報員アシェンデン」を読み、
また同じような感覚に襲われました。
「水をもう1本飲みたい」、と思ってしまったのです。
アシェンデンを手に取った時に、横に並んでいたこの本のことも目に入っていたので、
何かに追いかけられるかのようにして、書店に走りました。
書店に寄り道したおかげで、その日行こうと思っていた「怖い絵展」を朝から並ぶことができなくなり、
私を待っていたのは、なんと2時間半待ちの列でした。
でも、こういう行列ほど、怒涛のように話し続ける友人ではなくて、
並んでいる10分に1回くらい、一言だけ「寒いね」「足痛いね」って言うだけですべてを共有する、
水や空気のような友人と一緒に待っていたいものです。
バーッと話し続けられると、ちょっとつらい。
(それなら、1人で並んでいたほうがましだと思ってしまいます)
でも私は、無敵でした。
さきほど書店で買った水が、「むしろ2時間半の時間をくれてありがとう」と思わせてくれました。
長い長い待ち時間の中で、
「征服されざるもの」に出てきた不器用なイギリス軍の男に思いを馳せ、
「良心の問題」に出てきた、過去に罪を犯したジャンを淡々と慰め、
「ジェイン」に出てくるタイトル通りのジェインのような女になりたいとしみじみし、
企画展に入場できるとの合図が来た時は、「あぁ、閉じなきゃいけないのね」と
むしろ何のために並んでいたんだっけと思うほどの満たされた時間でした。
結局、本の感想も説明もほとんどできていませんが、
この本ってそういう本かもって思います。
最後、自分にとってある意味水や空気のような存在である恋人に、
「好きだと思うから読んでみて」とだけ言い残して、雑なおすすめをしました。
「レキシントンの幽霊」が好きで、
その中でも「トニー滝谷」が好きだと言っている彼は、
淡々と、でもって心地よく、この水をきれいに飲み干すに違いない。と思っています。