吉田篤弘の『神様のいる町』を読み終えて、いま静かな感動に包み込まれている。
東京出身で、神田神保町の古本屋に通う学生である作者は、なぜか神戸に運命めいたものを感じ、「自分の場所」だと思い込む。そして、自分の古本やレコードを売ってまでして資金をつくり、神戸への目的のない旅を繰り返す。途上では本を読み、立ちどまって考えたことを日記に綴り続けた。学校にはほとんど通わなかったものの、そこで一人の女性と出会い、やがて結婚をした。そうしていつしかものを書くことは仕事になっていた。そんな旅と本と結婚をテーマに自身の半生が綴られている。
「子どものころから文章を書くことが習慣」であるという作者。当時泊まったホテルのメモパッドを模してつくった、処女作「ホテル・トロール・メモ」が、兼装丁家らしく瀟洒なデザインそのままで作中に挿入されている。それは一種の詩文集で、折々に考えられたことが記してあるのだが、その一言一言から優しい味わいがじんわりとにじみ出てくる。例えば以下のもの。
ひとつひとつのものが集まるということ。
そしてまた、ひとつに戻っていくということ。
街には常にそうした力が働いている。
これが歩きながら考えられたものであるか、立ちどまって考えられたものであるかはわからないが、考えるために街を歩くという経験がなければ書けないものだと思う。それも、一人の静かな時間に。本当の自分探しの旅は、旅路を終えてから始まるのだ。
多くの人は青春期にあてどなくさまよい、悶々と物思いに耽った経験があるのではないだろうか。かく言う私も学生時代、講義をサボって街のあちこちをふらついていた。ちょうど私にも思いつきで詩文を書き散らす悪癖があったため、ダミアン・マニヴェル監督『若き詩人』の主人公のように、インスピレーションを求めて瞑想的な散歩を繰り返していたのだ。実際そんなものは己の外部には存在しないのだが、何か革新をもたらしてくれるものがあると信じていた。そのように無為なトローリングは、いつもたいてい川べりで吸う煙草の煙に愚痴を託して終わりを迎えるのだが、全く意味がないかと言えばそうではなかった。ほんの時たま、思いがけない小さな出会いに恵まれることがあった。
唐突に話が脇道に逸れて恐縮だが、ここでささやかな思い出話をさせていただければと思う。
大学三回生のある昼過ぎ、図書館での試験勉強の最中、私は急に将来への不安を覚え、参考書を開いたりペンを持ったりすることはおろか何も考えられなくなって大学を飛び出した。そして目的もなく街の北部にある池へと歩いて行った。
当時はなぜかこじんまりとした池が無性に好きだった。家々から少々隔たった場所に、池は正座をするように慎ましくも、鏡のような水面に固有の時間を閉ざしている。私はその姿に人間めいた親しみを感じ、しばしば時間を忘れてほとりに佇むことがあった。そして、こんなことを言うのはちょっと馬鹿げているけれど、ほの暗いその水底には人類に未知のものが隠されているような気がしていたのだった。いま思えば、思索の題材というよりは、そこに無意識に自分自身の存在を求めていたのかもしれないが、とにかく池は私の場所だと思い込んでいた。
まずは大田の沢、次いで深泥池を訪れた後、ずんずん歩を進め、今度は宝ヶ池にさしかかった。日が暮れようとしていた。池を一周する遊歩道にはいつもより人がたくさんいた。イベントでもやっているのかと思ったが、そんな気配もなく、私はぼんやりと水面を眺めていた。ほどなくしてあたりが濃紺の闇に包まれた。私はなおも一人で座っていた。すると突如として、対岸から花火がどかんと打ち上がった。予想だにしない爆音。歓声を上げる人々。驚きのあまり私は呆然とした。後で知ったのだが、国際会議場のレセプション等でこのように予告なく花火大会が始められることがあるそうだ。そのまま20分ほど連続で打ち上げられ、なんのアナウンスもなくそれは終了した。
無駄になると思った一日の終わりに、このような偶然に巡りあうことができて私は嬉しかった。自分から何かをしたわけではなかったが、小さな満足感が得られたので、来る前はこの後もまだ北上しようかとも考えていたところ、そんな気もなくなり、もう帰ろうと思った。駅に向かう人並みに加わろうとした時、走って池へと向かうお爺さんとすれ違った。「もう終わったんか?」と聞かれたので、はいと答える。聞けば、烏丸御池からわざわざ電車で見に来たそうだ。がっくりと肩を落とす彼に、一緒に帰りましょうと声をかけた。どこからか情報を仕入れて毎度見に来るそうだが、あと一歩遅かったようだ。そうして駅までの道のりで交わした会話が、今でも強烈な印象として残っている。
「それで、君は花火が上がることを知ってたんか?」
「いえ、色々悩んでいて、それで歩いていたらたまたま」
「そうか。生きなあかんよ」
さらりと言われた。しかし、一瞬にして核心を突かれたのだ。「え……」と言って私は黙った。そして、なぜわかるんですか? と聞いた。
「わかるよ、でも思い詰めたらあかん。人生は長い。ぼくは70歳を越えてから脳科学の勉強を始めて、今では学者の先生と話すのが楽しみなんや。高望みはしいひん。今自分に与えられたもののなかで最大限の努力をすることが大事やねん」
家族にはこんなこと言えへんけどな、とお爺さんは笑った。涙が出そうになった。もっと話がしたかったが、輸送機関の正確さはいつもと変わらず、ものの数分で最寄り駅に着いた。「ありがとうございます。ではまた」と挨拶して私は電車を降りた。それで、今の仕事を目指すための勉強を再開した。
思い込みは、予期せぬ出会いを生むことがある。この二重の僥倖は私の心のなかに深く刻まれた。そのため、以来たびたび用もないのに宝ヶ池に足を運ぶようになった。何かが起こったことはそれから一度もないが、こうして「運命の場所」を持つことは、弱った時にも心の拠り所があるようで大変安心感がある。そこにはまた、現実の恋人とは別に、もう一人の架空の恋人を持つような楽しさもある。その場所があちこちにあるならば、言い方は悪いが、その分幾人もの愛人を持つような秘密の楽しみが広がる。
実を言うと私は、神戸にはなんとなく鼻につく金持ちが多い印象があるためあまり好きではないのだが(ひどい偏見だと怒られそうだ)、作者の描くような神戸の街には是非とも行ってみたい。中華街で飯を食い、無人電車に乗って港と海を眺め、また街に戻ってホテルに泊まる。そして、ベッドサイドのテーブルにあるメモにその日考えたことを書きつける。自分だけの街とともにそんな一日を過ごしてみたいと思った。
人にはそれぞれの運命の場所があるはずだ。そこへの目的のない旅を、この本はあたたかく肯定してくれる。街を歩き、事物を見たり、人びとの会話に耳を傾けたりしてから、帰って一人で静かに考えてみよう。自分がたどってきた道のりと、これから開ける道のことを。考えたことはできればノートか何かに書く方がいい。折々の言葉は自分自身の姿だ。後で見返した時、それはきっと自分の今の位置を教えてくれる。悩んでいても迷っていてもいい。とにかくここだと信じて、旅をして、その旅路を振り返ることが大切なのだと言える。
いまこの本を読み終えて、近ごろまた曖昧になろうとしていた自分に、作者は、それで良いのだと言ってくれているような気がした。そんなぬくもりを感じる、本当にいい本だ。