あれは神様なんかもしれんで。友人のうちの一人が笑いながらそう言った。
それは祭りの日のことであった。この年も例年のごとく、私は友人らと連れ立って下鴨神社へ参詣に訪れていた。夕映えの境内は、「足つけ神事」への参加者でごった返していた。御手洗池の水は驚くほど冷たく、人々は入ったそばから悲鳴にも似た声をあげていた。我々も同じくわいわい言いながら足を清め、蝋燭に火を灯し、一年間の無病息災を祈願した。池面は人々の色とりどりの姿を反射し、トンボ玉を敷き詰めたかのように煌めいていた。出口で御神水を一杯頂いてから、御手洗社に再度手を合わせ、穢れを祓った我々は糺の森を散歩して帰ることにした。
森の中をしばらく歩き回った後、人混みを避けるため、我々は参道から薄暗い脇道へと経路を変えた。異様なその光景が目に飛び込んできたのは、先の池にほど近い、古代祭祀の遺構がある辺りに足を踏み入れた時であった。奈良殿神地(ならどののかみのにわ)と呼ばれる、二筋の小川に挟まれた禁足地である舩島に、外国から来たと思しき若い男女が二人で座っていたのである。どちらも至極アーバンな格好をしており、男の方は腕に刺青を入れていた。我々の視線に対してもどこ吹く風といった具合で、木の下でパンを食べたり、煙草のようなものを吸ったりしている。周りに柵があるにもかかわらず、立ち入り禁止と知らないがためにそれを乗り越えて入ったのだろう。説明看板が横に立っていたが、そこに英語は書かれていなかった。
これは良いのか? いや、良いはずがない。なんと無礼な、と目を丸くした私は彼らに声をかけようとした。ところが、そこで勘のいい友人に気付かれて、こうたしなめられた。
「あんまり言ったらあかんで、よう知らんにゃろうし。それに、あれはもしかしたら人じゃないかもしれん」
私はハッとして口をつぐんだ。そして、今一度その空間全体を見渡してみた。すぐそばの喧騒が嘘であるかのように、森は暗く、ひっそりと静まり返っていた。人目から隠されたこの緑の胎内とも言うべき場所に響いてくるのは、足元を流れる水の音と短い鳥の鳴き声を措いて他になかった。林冠にぽっかりと開いた穴からは、無言で寄り添う彼らに陽ざしが降り注いでいる。言われてみれば確かに、そんな二人だけの静けさを楽しむ彼らの姿は神々しくもあった。男の口から吐き出されて光の中へと溶けてゆく煙は、あたかも彼が荘厳な自然と交わす会話のようであった。陰鬱な緑地の時間が輝く二人を中心にして止まっていた。
友人の言う通り、あれはきっと、つかの間のバカンスの折、京都の祭りを見に来た異国の神なのだ。それかもしくは、旧知の神々のもとへ久方ぶりに遊びにやって来たか。しかし、たとえそうでなくとも、人は没すればみな祀られることから(あまりこうした考えは援用すべきでないとわかっていながらも)、この程度の聖域侵犯は許されるのではないかと思った。そして、変な納得の仕方だと思われるかもしれないが、今後はなんでもかんでもダメだと言うのは控えようという気になった。なんとなく拝みたいような気持ちになりつつ、そこを友人らと通り過ぎ、しばらくして振り返ると、彼らの姿は木陰に隠れて見えなかった。