明け方の星空の下で
青。夜は移行の色を示していた。星々が順番に光っては消えた。夏に冬の星座が見られるとは知らなかったが、別に不思議なことだとは思わなかった。
先週の土曜日のことである。踊り疲れて地下のクラブから這い出した私たちは、鴨川沿いのベンチに座った。そして、しばらくの間、二人きりで、無言のまま明け方の星空を眺めていた。その時、まるで世界は私たちのためだけに存在しているかのようであった。
果たして、これ以上の詩があるだろうか? そこで覚えた感動は読者に伝わっているだろうか? また、その感動を読者の内部に再現することができるだろうか?
残念ながら、答えは全て否である。これは他人にとって大した光景ではない。書いてしまえばそれはもう詩ではなく、詩的なものでしかなくなる。我々が目にするのは書かれた詩であり、体感された詩ではないのだ。
書かれた詩。それは文字化されて一応の格好がついたものの、その本来の姿は、形に落とし込まれたことで歪んでしまっている。お行儀良く正座させられて、上目遣いで顔色を伺うその作品は、もはや原体験からは完全に乖離した別人に成り果てている。
さらに言えば、「~の詩」などと謳う詩以外の作品や、詩的だと評されるもののほとんどは、「詩的」的である。詩の威光を借りようとする、チャラいキツネの誇大広告である。そんな便利な言葉になってしまった「詩」とは一体何か。
し【詩】①漢詩。(中略) ②文学の一部門。風景・人事など一切の事物について起った感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの。押韻・韻律・字数などの律格あるものと、散文的なものとあり、また、叙事詩・抒情詩・劇詩などに分ける。 (新村出編『広辞苑(第2版)』岩波書店、1969年、p.935)
私は、ほんとうの詩は内部にあると考える。自分に正直になって、魂の素朴な交歓を感じてみよう。そうすれば、見慣れた風景も何かいつもとは違ったものに見えてきて、そこから新しい輝きが生まれるかもしれない。そして、それを享受した心に描かれる心象こそが詩なのだ。
それは実際に体験したことでなくともよい。目をつむって一つの場面を観想すれば、それをめぐる美しい事象の数々が、静かに語りかけてくるはずである。
「詩を読み詩を愛する者はすでにして詩人であります」と三好達治は言ったが、詩を感じる心があるならば、その者は詩人である。そしてあとは、肩書きを欲する者のみが、その心を言葉に移し替えるため、ポール・ヴァレリーの言う代数学者になればよいだけなのだ。
詩を喚起するものは、すでにそこにある。見えない黄金の褥(しとね)が人の下に敷かれている。その存在に気付くか気付かないかで、ものの見方は変わる。
それと同様に、書かれた詩も、人の内部にある詩をいくらか喚起する。しかし、それらに気付いたからと言って、書かなければならないということはない。
ひとたび詩が生まれたならば、その詩を保持しよう。
その者がそれを保持し続けるならば、彼は一人の美しい人間である。内圧の高まりを受けて彼が何かを言うならば、彼は詩人か作家である。彼が空間に向けて手を動かすならば、彼は画家か彫刻家である。
そして彼がそれをあらゆる分野に適用するならば、彼は万能の芸術家となる。
そのような表現行為を試みる者は、現代という潮流に飲まれるべきではない。この時代のこの世界に生きるこの身体自体が現代的なのだから、あえて主流に合わせる必要などはないのだ。
書く行為や書かれたものは詩的である。そのために自分だけの純粋な観念を温めること、すなわち詩的な人間ではなく、詩人たることで、一人の人間は完成する。
ある場面にとどまる時、もしくはそこに思いを馳せる時、そこから反響するものがあるならば、それは喜ばしいことである。内部の詩が震えている証拠である。そうして感慨に浸っているまさにその時、自らのうちに人間の存立が約束されるのだ。
「あれだけわかるよ」
静かに澄んだ東の空を見つめ、その人がぽつりと呟いた。「何が?」と私は聞き返す。
「オリオン座」
交わした会話といえばたったそれだけだったが、私は一晩をかけて語り尽くしたような気分になった。頭の中では、Lampの『最終列車は25時』とキリンジの『エイリアンズ』が交互にループ再生されていた。
明け方の星空の下で私は幸福を感じていたようだ。それがはっきりとわかったのは、後にその場面を思い出してからのことである。
心の中の詩の存在に気付く時、人は自らが詩人であることを発見する。誰にでも遅かれ早かれ、そんな時がやってくるだろう。私はそう信じている。この内部の詩への開眼こそは、美しい人間の夜明けなのだ。