京都人猫説
全ての京都人は猫である。その意味は市内で交わされる人々の会話に耳を澄ましてみれば自ずとわかるだろう。彼らは言葉の端々に「にゃ」とか「にゃん」とかいう鳴き声を忍ばせて話をする。そしてその鳴き声は、「いけず」に象徴される、この地特有の高等コミュニケーションのひとつであり、それによって秘密裏に言外の意味を伝達しあうことで、(京都人同士の)人間関係をスムーズに構築することができるのだ……。
なぜ私はこんな変な話をしているのか。いや、何も藤田嗣治の絵に描かれている服を着た猫のこととか、三半規管の狂った萩原朔太郎が語る猫町、つまり「形而上の実在世界」のことをいうのではない。これはあくまで現代における現実の話なのだ。かくいう私も京都生まれの京都育ちで、上述の猫のような口語を無意識に用いて暮らしてきたが、数年前に京都弁に関する記述を本で見つけてそれに気が付いたという次第だ。この事実を知ったうえで、人々が喋るのを注意して聞いてみると、何気ない会話でもどこかしら面白おかしく聞こえてくる。それは一体どのようなものか、次に例を用いて説明してみよう。
たとえば、行為にかかる断定を表す「~するのだ」という表現などは、関東弁の口語では通常「~するんだ」、少し砕けて「~すんだ」となるが、大阪弁では「~するんや」、そして「~すんねや」となる。これが京都弁ではさらに砕けて「~すんにゃ」へと変化するのだ。さらに、そこに感嘆を含む場合は「~すんにゃあ」である。また、関西で広く用いられる敬語「はる」を含み、かつ相手にその第三者の挙動について訪ねる時は、大阪弁では「~しはるんやんな?」もしくは「~しはんねんな?」となる一方、京都弁では「~しはんにゃんな?」となる。
実際に最近私が使った例でいえば、「あの人も来んにゃんな?(あの人も来るんだよね?)」、「そう言ってはんにゃろ?(そうおっしゃってるんだろ?)」、「そうすんにゃって(そうやるんだって)」、「そんなんなんにゃったらやめときいや(そんなことになるんだったらやめておけよ。※酒を飲みすぎてまた記憶をなくしたと語る友人に対して)」などがある。
この一聴してユーモラスな発音は大阪弁と比べて幾分優しい響きを持っているように感じられる。京都弁は他方言話者から柔らかい印象を持たれることが多いようだが、その理由として、語尾を伸ばして話される傾向があることのほかに、こうした口調が随所に散りばめられていることが挙げられるだろう。それらを巧みに織り交ぜて、というよりも自然に語尾の一部にして使用することで、穏やかな空気感が生まれ、コミュニケーションを円滑に進めることができる。最初にふざけ半分で擬音語であるかのように書いたが、そこにはちゃんとした意味があるのだ。
京都出身者と話す機会、もしくは京都に行く機会があれば、愉快な関西イントネーションを楽しむとともに、語尾に付いてくる猫の声を聞き分けてみてはどうだろうか。ただし、京都の街中で本当にしっぽの付いた人を見かけたら、別の意味で注意せねばならない。おそらく、それは狐である。