日本では伊丹十三の翻訳で広く読まれたウィリアム・サローヤンの『パパ・ユーア・クレイジー』。母の元で暮らす息子が別居中の父を訪ね、ひと夏を過ごす爽やかな物語。作中で息子は常に父を尊敬の眼差しで見つめ、父は息子を一人前の人間として対等に扱い、接する微笑ましい姿が描かれる。著者ウィリアムと息子アラムとの関係が少なからず投影されているわけだが、ここで父サローヤンが描こうとしたのは、息子の視線に仮託した理想の父親像とでもいうべきもので、現実の姿ではない。
最も有名なアルメニア人の一人として知られるサローヤンだが、彼はカリフォルニア州フレズノで生まれている。トルコ人によるアルメニア人大虐殺を察知した父母が、同地のアルメニア人コミュニティに移住してすぐ、1908年に誕生し、その3年後に父アルメナクが他界している。それに伴い人格形成期である3歳から8歳までの5年間をオークランドの孤児院で過ごし、その後再びフレズノのアルメニア人居住区に戻り労働に明け暮れながら少年期を過ごした。はじめてアルメニアの地を踏んだのは作家として成功してから。その経験が傑作『僕の名はアラム』執筆の動機となる。
同胞が大量虐殺されるという理由で生まれる以前に故郷を失い、生まれて間もなく実の父を亡くすという、二重の喪失をルーツに持つのがウィリアム・サローヤンという作家だ。文化の違う多人種がともに生活するアメリカの縮図とも言うべき世界の洗礼を受け、その後アウトサイダーの視点でアルメニア人コミュニティに生きるという複雑な立場が彼の人格を形作った。
饒舌で傲慢な父の元に育ったその息子アラムは、父の創作を否定するかのような「一語詩」で作家としてデビューした。「光」という言葉を間違って綴った”Lighght”というたった一つの単語を創作としたのだ。サローヤンの息子として生きることのプレッシャーに打ち勝つ、まさに「父殺し」の最初の一手である。息子アラムの詩が取り上げられた『ロンドン・タイムズ』の書評を目にして、サローヤンは荒々しくけなし、頭ごなしに否定したという。ランダムハウスのアラム担当の編集者はウィリアムからの執拗な攻撃の手紙まで受け取っている。
長いすれ違いの末、死の床でようやく和解に近づいた親子だったが、ウィリアムは、その財産の全額を子どもたちではなく自らの財団に相続すべしとの遺書を書き遺してこの世を去った。
「自分が傷つくということを認められるようにならなければ、自分が同じことをした時、他人も傷つくことがわからないんだ。それが、どうやらパパの問題だった。父は「なんだ、自分は人を傷つけているんだ」と言うだけの余裕がなかったんだ」(バリー・ギフォード、ローレンス・リー『サローヤン伝説』内藤誠・堀内久美子訳/ワールドマガジン社)
息子アラムはこのように語り、自らの中の父の面影をも肯定している。父と同化することではじめてその重荷から解放されたのだろう。ウィリアムにはそのような「父」が二重の意味で存在しなかった。伊丹十三は『パパ・ユーア・クレイジー』を翻訳するにあたり、英語という言語で育てられることの厳しさを指摘し、あえて人称代名詞を省略せずに訳している。
「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」(W・サローヤン『パパ・ユーア・クレイジー』伊丹十三訳/新潮文庫あとがきより)
どうあっても他人と同化することのできない厳しい断絶。伊丹十三の慧眼は一冊の創作からサローヤンという作家の人となりまでを見抜いていた。仲睦まじい父子のポートレイトには、実は埋めがたい溝が横たわっているのだ。