この本の著者のことを知ったのは、
ミシマ社の雑誌「ちゃぶ台」で文章を読んだのが最初だった。
著者のことが全くわからず、エッセイのようなものかと思って読み始めると、
とても赤裸々に自らの恋愛が綴ってあった。
なんだか自己露出を好むブログのようなだなと思って読んでいると、
最後に心揺さぶられる描写があり、終わった。
一体これを書いたのはどんな人なのだろう。
巻末の紹介ページを見ると、植本一子、写真家、とある。
著書に『かなわない』。
ネットで調べてみるとその人のホームページが出てきたが、石田さんがガンになったとの記事。
石田さんって誰だろうと思っていたら、しばらくして気づいた。
ECDだ。
ラッパーのECDがとても若い奥さんと結婚していて、その生活のことを書いた本の名前は知っていたが、
その著者がこの人だったのだ。
ECDはガンなのか。
同じ日、たまたま子育て中の友人のFacebookが目に入り、
読みかけだった植本一子『かなわない』を読んで、いろいろ思うところがあったと書いてあった。
友人が読んでいたこともあり、なんとなく気になってこの本を探し、少ししてから見つけて購入した。
*
本は皿にのった一枚のトーストの絵が表紙で、既視感のある雰囲気だ。
内容は2011年から2014年までの日記と、同時期に書かれたと思われる何本かのエッセイ。
最初にあとがきを読んで、巻末の文章をいくつか読んだ。
その辺りは、興味をもったきっかけだった「不倫」に関する内容で、
「ちゃぶ台」を読んだ読後感がもう少し広がった。
それから少し時間をおいて、最初の方から日記を読み始めた。
2011年は震災直後だが、直後の3月と4月はほぼ収録されず、4月23日の日記から。
その頃はまだ浮気相手の「彼」は出てこず、震災や子育ての話が多かったから、
一体どこからそこへ流れ込んでいくのだろうという下世話な好奇心も手伝って読んでいった。
目立つのは子育ての大変さで、それによって気分が浮き沈みしている様子が見えた。
子育てがどれほど大変なことかというのは自分にはよくわからないのだが、
植本さんはよく泣いていた。
後半、この本ではECD以外の男性との関係を含み、
最後は著者自身の心理分析のような展開になっていく。
精神的に不安定になった著者は、心療内科で境界性パーソナリティ障害と診断され、
偶然出会った漫画家に治療を受けるようになる。
この辺りの描写もセンセーショナルというか、
ここまで自分の精神状態をさらけ出すというのもなかなかできることではないので、
読む者の興味を引く。
しかし読み終えて、この本は結局何について書かれた本なのだろうと思った。
「不倫」という話題は刺激的だし、
精神的な病気を漫画家がカウンセリングするというのも、非常に気になる。
しかしではそれがこの本で言いたかったことなのかといえば、
なぜかそういう風にも感じられないのだ。
それらは日記の主題のうちの一つのように思われた。
*
気になったのは、この人の表現に関する考え方だ。
一冊目の著書(『働けECD』)を出してくれた編集者とのくだり。
二冊目もその人と作っていく話だったはずだが、著者はあっさりそれを断っている。
でも、私はやりたいんです。私は私の名前だけで、勝負したいんです。そう言うと工藤さんは「時期尚早だと思います。編集の立場からしても、友人の立場からしても」と言われ、もう終わってしまったんだな、と思った。この人を置いて、私は次へ行かなくてはいけない」(2012年11月21日)。
そうだろうか、自分のブログに目を留め本として世に出し、
次の著書についても丁寧に企画を進めていてくれた編集者に対して、
そんなに簡単に「終わって」しまってよいのだろうか。
表現においては自己の感覚が何よりも優先されるということだと思うが、
表現するとはそういうことなのだろうか。
最近文章を書いていないというECDに対しても
「どんどん書いて発表していかないと仕事こなくなるよ」というけれど、
表現ということに全く躊躇がない感じに引っかかった。
なんだかちょっと傲慢ではないかと思ったのだ。
表現は、そこに表現された人を傷つけたり、不快にすることもあるだろう。
それに対してそんなに一心でよいのか。
*
でもどうして自分は、この著者にイライラしているのだろう。
よく言われるように、引っかかる部分は、
自分自身の中で気にしている部分なのだろうか。
自分もエッセイのような文章を書くことがあるが、その時は書きたいと思う気持ちと、
しかしこれを書いたら書かれた人が不快に思うかもしれないという気持ちがせめぎ合う。
いつも、登場する人たちを傷つけてしまうかもしれないという心配がある。
というか、その人たちが表現に「使われた」感じがするのではないかと不安になってしまうのだ。
(こんなことを考えること自体、その人たちに失礼なのだが)
逆の立場だったらどうだろう。
想像してみて、必ずしもそんな風に感じるわけではないと思った。
親しい友人が自分のことを描いてくれたら、素直にうれしい。
でも、それがあまりに自分のイメージと違ったり、変な感じの描かれ方をしていたら、
嫌だなと思うこともあるかもしれない。
表現するには、その対象のことをきちんと見て、
それを見える形にしなければいけないということ。
呆れるほど当然のことだ。
でもそうだとしたら、どこから「使われた」感じを心配する気持ちはやってくるのだろう。
例えば亡くなった人を弔う時間。
そういう時間を友人がもっているとして、それを第三者が言葉で描くと、
亡くなった人と友人との関係を損なってしまうのではないか。
そう心配になってくるのだ。
書くことが、その弔いを冒涜してしまっているような。
でもそれは、書くという行為を弔いの出来事よりも下位のものとして、
自分が捉えているからかもしれない。
出来事は一次的だが、それについて書くことは二次的で、
二次的なものは一次的なものよりも必然ではないという風に。
けれど本当にそうなのだろうか。
そのことは、もっと考えてみる必要があると思った。
表現することで自分を見てもらいたい、という欲が自分にはある。
それが時々、世界を見る眼を曇らせることがある。
でも、本当に心を打つ言葉は、そんなところからは生まれない。
本当に書かなければいけないことを書くときには、自分のことなど考えない。
本当に書かなければいけないことなら、
それがたとえ誰かを傷つける可能性があっても、自分は書いてしまうかもしれない。
*
植本さんのこの本は、結局表現のことを書いているのではないだろうか。
亡くなった祖父を父親に止められても撮影し、
子育ての辛さを、浮気を、精神の病を書き、衆目にさらす。
それでもこの人はそれが必要だと思っている。
そのことについて書かれた本なのだ。
なんだか嫌だなと思うところも感じたけれど、何かを言いたくさせる本だった。
嫌だなという部分には、たぶん自分が映っている。
だからそのためには、本を読んだ、自分について書かなければならなかった。
この本を作っている人たちに感謝しなければなという気持ちと、
それでも自分は植本さんに一言いわねばならぬという、二つの気持ちが、
いま湧いています。