『ブレード・ランナー』の続編が来年公開予定されるそうだ。リドリー・スコットは製作総指揮に携わり、監督は『複製された男』のドゥニ・ヴィルヌーヴだというから嫌が応にも期待は高まる。前作の30年後の設定で、ハリソン・フォード演じるリック・デッカードも引き続き出演するというから、「デッカード=レプリカント説」は否定された形になるのだろうか。いずれにせよ、映画版の世界観を引き継ぐそうなので、フィリップ・K・ディックの世界とはますますかけはなれたものになることは確実だ。
『ブレード・ランナー』を監督するにあたって、原作であるディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をリドリー・スコットは読んでいなかった、というのは有名な話だ。別物といっていい原作と映画の決定的な違いは「電気羊」そのものの存在だ。ディックの小説で描かれる、「死の灰」が降り積もる未来の地球では、多くの人類が火星に移住し、残された人間たちにとって死滅寸前の希少な生きた動物を飼うことが何よりのステイタスになっている。「本物の動物」を飼うことのできないブルーカラーであるデッカードは、本物そっくりの電気羊を飼うことで願望を満たしているのだが、そもそもなぜ動物を飼うことがステイタスになっているのかの説明はない。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の一貫したテーマは、人とアンドロイドとの違いだ。人工知能が発達し、人間以上の能力を持ち得る未来では、アンドロイドと人の区別が困難になる。火星から脱出し地球に紛れ込んだアンドロイドを捕獲し、処理する、バウンティーハンターのデッカードは、疑わしき相手を「フォークト=カンプフ法」というテストにかけ、その判別手段とする。いくつかの「きわどい」質問に答える際、瞳孔反応のスピードにごまかしようのない差異が表れる。その質問とは、動物や赤ん坊、人間に対する虐待に関したものだ。
言葉の通じぬ他者への共感能力だけが人を人たらしめているものとしてディック・ワールドでは重要視される。だからこそ、ムンクの絵画を見て感銘を受けるアンドロイドや、人と寸分の違いのないアンドロイドと性的関係を結び、同時にモノのように殺してしまうバウンティハンターの機械のような非情さを描くことで、その境界を限りなく曖昧なものとして、読者を揺さぶるのだ。
抗鬱どころか抑鬱作用すら持つ「ムードオルガン」というマシーンや、宗教そのものをガジェット化した「共感ボックス」など、ディック世界で描かれる装置の数々は、生活のためのハードな執筆を覚醒剤に頼り、幻覚をきかっけにした強迫観念の解消を神学や易経に求めたディックの人生そのものを反映している。薬や外的要素によって自身の感情や行動すら操作できるのであれば、なおさら自分とはなんなのか。5度も結婚と離婚を繰り返したディックにとって変わらぬ拠り所は飼い猫の存在だった。混濁した精神状態で執筆を続け、さまざまなアプローチでアイデンティティについて模索し続けたディックにとって、言葉の通じぬ猫に感情移入し愛着を持つということが、ある種の拠り所だったのではないだろうか。だからこそ例え「電気羊」であれども、意思疎通のできない存在に感情移入し、飼育することが人間らしさのステイタスとして描かれる。
「死を見ると、わたしはかっとなる。人間や動物が苦しんでいるのを見ると、かっとなる。飼い猫が死ぬと、本気で神をのろう。神に対して無性に腹がたつ。ここへひきずりおろして、問い詰めた上で、こういってやりたい。この世界は狂っている。」(「彼の書いていた世界の中で」ジェフ・ワグナー/浅倉久志訳 『悪夢としてのP・K・ディック』サンリオより)
人工知能が人間の能力を超越する「シンギュラリティ」を目前に、人の仕事とは何かが問われる今、ディックの小説は驚くほどリアリティを増している。猫を抱くディックのポートレイトは、その作品のエッセンスそのものを表し、われわれに人間らしさとは何かを問いかけているようだ。