キクラデスのトイレ
 Takahiro Sawamura

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2017-02-04 20:16:31

  キクラデスのトイレ

 

  トイレは美しい。だがその美しさは必ずしも清潔であることを意味しない。というのも、そこがどれほど汚くとも、静寂な空間に適切に配置された便器がその用途の事実とは真逆の壮観を呈するからである。特に公共施設等にある男性用トイレにおいては、整然と並ぶ白い小便器が、美術品の陳列された展示室のようなアウラに満ちた不思議な雰囲気を惹起している。このように、トイレにはそれ以外の生活空間とは異なった独自のコスモスが開けているのだ。

  男性が女性用トイレの内情について知らないように、女性もまた男性用トイレについて要領を得ない点が多いのではないだろうか。ここに、連れ小便に関するひとつの興味深い事実がある。それは二人の男が同時にトイレに入る時、そこに小便器が三つ以上並んでいるならば、彼らが隣同士で用を足すことはない、ということである。これだけ聞くと不思議な感じを受けるかもしれない。あるいはひょっとして女性の場合も同じなのかもしれないが、このような現象が起こるのは、羞恥心や同性への好意がないことのアピール、もしくは互いの個人的な領域への配慮といった心理がそこに作用するためだと思われる。尿意と小便器を前にして、男性の局部はある程度隠れているものの、外部空間への曝露を免れ得ない。そして、排尿という行為が生理的なものであるにも拘らず、トイレという空間が半公共性を持つゆえに我々はしばしば緊張を強いられる。なぜなら、我々はたとえ同性同士であったとしても、思わず他人のものに目が行ってしまうからである。これはどうすることもできない動物の本能として時折人間を悩ませる。その予防策として、我々は無言のうちに小便器をひとつ空けて用を足すという社会的性質を身に付けたと言える。そこにもう一人の男が入ってきて仕方なく先の二人に挟まれる形での処理を選択するまで、その真ん中の小便器は宙ぶらりんの状態であるが、決して無視されているというわけではない。むしろ、侵し難い空間として、周囲に積極的な意味を投げかけているのだ。それは言わば、祀られている状態である。私はそこに人間の理性のシンボルを見出したい。そして願わくは、さらに象徴性を高めることでその健気な白い空虚を復権させ、そこに観念的な潤いを与えたいと考える。

  さて、人はたとえ神に無自覚であったとしても、大なり小なりそれぞれの信仰を持っているものである。誰かの言説を信じることもそうだが、我々が人間として生活し社会を形成しているという事実それ自体が信仰の賜物だと言える。信仰を持たないで生きることは何からも隔絶された状態で生きることを意味する。それはというのも、人間は関係性の中でしか生きられないからである。さて、そんな精神的共同社会の伝統に則って、先に挙げた「真ん中の小便器」を神聖視するならば、秩序の保護者としての性格を持つ神を当てはめなくてはならない。そこで私の頭に浮かんだのは、デロス島のアポロンである。アポロンは音楽や詩、弓矢、病、予言などを司る神として名高く、その理性的な性格によって知的な活動領域に光を与える。ニーチェの定義に従うならば、「アポロン的」とは、節度ある態度によって調和をもたらそうとする傾向を意味する。それが目指すのはまさしく人間関係における平和である。両脇の男は空隙を挟むことで正気を保つことができる。トイレに入るまで交わされていた会話はそのままなめらかに続き、その一方で純粋な行為に集中することもできる。そうして、用を済ませた彼らの意識は何事もなく次の目的へと移行してゆく。これらの一連の流れが成立するのは、真ん中の小便器に召喚された存在、すなわちアポロンのおかげだと言えるのではないか。彼らは無意識のうちに神に誓いを立て、秩序を守る。それは同時に神による加護を意味している。その見えない光明の働きによって、彼らは理性的でいられるのだ。

  次いで、デロス島についても説明しておこう。デロス(Delos)はエーゲ海中部、キクラデス諸島の中心に浮かぶ面積3k㎡の小島である。ギリシャ神話によれば、アポロンおよびその妹アルテミスがそこで生誕したとされ、古代にあったアポロン神殿により信仰の中心地として栄えたという。だが紀元前88年にミトリダテスの軍隊に攻撃され、2世紀後半にはすでにほぼ無人島であったことが記されている。現在においてはほかのキクラデスの小島同様、人のいない、遺跡のみの島となっている。キクラデス(Kyklades)という語は、島々がデロスを環(kyklos)のように取り囲んでいることに由来する。デロスは周りの島々から畏敬を集め、古代を通して神聖な島としての名声を保っていた。それは信仰によって築かれた平和だったのだろう、少なくとも敵対勢力の闖入までは。容赦ない攻撃によって人々は虐殺され、神殿は毀たれてしまった。デロスを守り、またデロスによって守られていた諸島の秩序がそこで破られたのだ。そして前述の通り、それらの遺跡が人目に触れるまでは非常に長い年月を要することとなった。だが、そのように古代に停止したことで、ある意味デロスはその聖性を現代に残していると言える。諸島の共同体意識、その関係性の中心に、燦然と輝く伝説と破壊された歴史のタブーが影を落としているのだ。そしてそれは、囲まれ、あえて空けられている「真ん中の小便器」についても同様である。というのも、男たちは何も始めからそこを空けていたわけではなく、自分の隣に来られること、つまり侵犯に直面して初めて禁忌を認識したに違いないのだ。それから彼らは自主的に掟の維持に努めることとなる。もともとある聖性には気付きにくいものだが、経験が威光を信じるきっかけとなるのだ。そうして、トイレ内の意識には、守り守られる関係による秩序が形成され、不安感を催させる行為のつつがない進行が約束される。それは儀式化された静寂の祭祀とも言えるだろう。

  小便器の形についても注目しておきたい。今日、どこのトイレに入ったとしても、たいていは陶製の小便器が、その用途のために切り詰められた完璧な様式美を我々に提出してくれる。逼迫する事態とは対照的に、我々の前に超然と佇むその姿は優雅でさえある。そして偶然にも、それはどこかキクラデス文明の彫刻と似ている。その彫刻とは、文明の名を世に知らしめた遺物のひとつで、白くつるんとした長球形の顔に簡素な三角形の鼻のみが浮かぶシンプルなものである。極度に単純化され、鼻の下にわずかな翳りを見せる偶像の表情は、仕切り板に囲まれた便器の陰の部分を私に思い起こさせる。ここで私は、「真ん中の小便器」を"キクラデスの小便器"と名付け、アポロンを宿した偶像に見立てたい。いや、何も神が小便をしていると言いたいわけではない。そこに人間の知覚が働く時、小便器そのものが依り代となり、周りに近付きがたいアウラを漂わせる、とでも言おうか。とにかく、隠れた聖性を纏う存在として、それがトイレにあることは明白なのである。それはそれ自身で十分かつ重要な機能を持っているにも拘らず、生活上の盲点として見過ごされている。言わば、漢文の置き字のようなものである。個々の人と小便器、そこに生まれる生活の文脈と人間関係の動線を読むため、すでに文法を把握した理性によってその示唆は感得される。そして次第に経験的理解のパターン化がそれを覆い、我々の目から神の意志を見えなくするのだ。だが事実、その時、キクラデスの小便器は潤っている。観念の青みに満ちている。その精気の充溢を想像することは、デロスの遺構にアポロンの光とそれによる古代都市の繁栄を見出す態度と同一の方向を向いている。

  ちなみに、キクラデスの彫刻はその多くが女性を表しているという。そう言われて気が付いたのは、小便器もまた女性的なフォルムをしているということである。それならば、用を足すことはある種の交合、それも人間の歴史の運行に必要な最小単位の交合であると言えなくもない。特にキクラデスの小便器が出現する場合、無意識の内部に法悦の感覚も沸き起こってくるのではないだろうか。このように日常化された行動について改めて考えてみると、それが未来へとなめらかに滑ってゆくという、一見当たり前の事柄の中にいかに多くのプロセスが詰まっており、またそれがいかに素晴らしい喜びに満ちたものであるかがわかる。

  トイレには個々人の束の間の王座が輝いている。私の記憶違いでなければ、確か夏目漱石や谷崎潤一郎、稲垣足穂らが、トイレはものを考える場所だと言っている。だが彼らのように悠長なことは個室の中でのみ言えるのであって、実際、小便器はしばしばその隣との空間共有と距離感覚によって関係の緊張を発現させる。そんな日常の危機に対して安全性を担保するのは、我々の暗黙の了解であり、その所産であるキクラデスの小便器なのだ。関係を仲介する陶器の優しい白い光、そこに秘められた美しさに私は魅惑され、意識的にそれを見つめることでその謎に迫ろうとした。そして初めて小便器についてじっと考えてみた時、キクラデスの石像が不意に脳裏をよぎった。すかさず私は神・地理・彫刻というキーワードを書き起こし、それらはトイレにおける(不可視の)人・位置・小便器という三つの対比を成すに至った。尤もこれは強引な意味付けであると取られても仕方がないことではあるが、私は、私という一個人の生き方および考え方、つまりは信仰によって、この事物同士のマリアージュを企図したに過ぎない。この世の何かはまた別の何かを象徴している。そして、それは必ず互恵関係にある。人も物も全て、無意味にそこにあるものなどはないのだ。世界は縦にも横にも地続きであり、我々が目指すべきはその円満な関係である。それを成立させている諸要素を拾い上げることで、私は人間全体に資することができればと思っている。そして再三にはなるが、トイレはやはり美しい。その秩序を保つのは、我々ひとりひとりの意識である。普段の何気ない生活にも汚れや乱れがないよう心がけなければならない。さらにもう一歩前へ進んで、その美を積極的に喚起することができれば、それはもう立派なアポロン的人間なのである。

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Takahiro Sawamura


1992年京都市生まれ。 生活者。 The Toilet Mag:https://thetoiletmag.tumblr.com/ 天才海岸:http://blnxpc.tumblr.com

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